2007年02月07日

ノロイ −土着的な恐怖もここまで薄味になりました


 「ノロイ」は和製ブレアウィッチとも呼ばれるモキュメンタリー(偽ドキュメンタリー)・ホラーである。

 「リング」や「呪怨」とはまったく違う形のホラーに挑戦したことがまず評価できる。この手の作品は結局これしか作られなかったと思うので、作品の出来不出来はともかく、日本ホラー映画史に残る映画になったことは間違いないのではなかろうか。

 出来不出来はともかく、なんて書いたが、アイデア・構成・映像、全般に渡ってなかなかの力作で楽しめた。
 この映画のレビューを見ると、どこでも松本まりか(アイドル、本人役で出演)をほめているが、この映画ほど彼女が魅力的にうつる作品もないかもしれない。彼女は霊感があって、オカルトTV番組のロケである神社に出向き(同行するレポーターはアンガールズ)、そこで死に至る呪いにとりつかれることになる。

 『リング』の松嶋奈々子とか黒木瞳が私は嫌いで、それは彼女らが化粧がはげない程度の演技を心がけているように見えるからだ。叫ぶ顔も恐怖におののく顔も、リアルさがまるでないので興ざめしてイライラする。
 その点松本まりかは恐怖に叫ぶときも、霊に憑依される演技も体当たりでこなしていて見ていてちゃんと怖いし、しかもそんな演技をしている間もどことなくキュートなのである。ホラー女優としてよっぽど大物だと思うが、その後こういう仕事はあまりしていないらしいのはもったいない。
 
 さて、「ノロイ」が題材にしているのは、日本の田舎にある土着的な怖さである。信州の山奥の村(今はダムの底)で、古来伝われてきた邪鬼のような存在「禍具魂(かぐたば)」が現代に解放されてしまう。関わった人は全員死ぬ。(でもなぜか松本まりかだけは死なない…まぁ本人役なので死んだことにはできないのはしょうがない)

 考えてみると少し前まで、ホラーに限らず日本の映画はこうした都会人の記憶の奥底に眠っている土着的な風俗への恐怖をよくテーマにしていた。横溝正史シリーズが怖いのも、意識的に人里離れた田舎を舞台として濃厚な土着的雰囲気を醸していたせいだ。しかし、いつの間にか映画界からそうした作風は失われていたのだった。ということを「ノロイ」を観て私は始めて気がついた。

 しかし「ノロイ」は、昨今のホラーブームの中で日本映画のスタンダートというべき土着的恐怖をおそらく唯一、扱っていながら、そこのところにまるでリアリティがない。
 私は母方の郷里が信州の山奥なので、子どものときからの感覚があるが、本当の土着的な恐怖はあんなものではないのである。
 
 感覚の問題なので、どこがどう違う、とははっきり言えない。
 恐怖の発信源であるノロイ仮面(パッケージ写真)のデザインがあんまり安っぽい(そのせいで長い間観る気になれなかった)とか、かぐたばを解放するきっかけとなる地元の鬼祭なるものの映像もやっぱり安っぽくて急ごしらえすぎって感じのせいもあるんだけど、もっと何というか…空気感…というか…。あの圧迫されるような息苦しいような、それでいてある種の開放感のあるような…言い表すのは難しい。
 実際に田舎の闇に、風習に、人々に触れた人ならすぐわかるあの感じ。「ノロイ」にはそれがあまりに希薄なのだ。

 土着的なタブーにうっかり触れてしまった都会人の破滅する様を描く、というテーマで話を進めることもできたと思うし、もしかしたらその方が怖かったのではないかと思う。だがノロイの電波が来ると騒ぐ奇人や、自殺する鳩、超能力少女などのガジェットでストーリーを埋めてしまっているのが、いかにもサブカルの、漫画やゲームの影響という感じで、現代の映画だなあという気がする(それが悪いわけではないんだけど)。
 「ノロイ」では土着的恐怖は、それらのガジェットのひとつにすぎないのだ。
 
 しかし今後も土着的恐怖をリアルに描写する映画など出てこないのではないだろうか。
 そういうのが見たければ80年代前半より前の日本映画でいくらでも見られるわけだが、こんなに短期間でそうした感覚が日本映画から失われてた(そして私もこれまでそんなことは気にしてなかった)ことに驚いた。
posted by adayabook at 02:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月27日

「まあだだよ」− 内田百間不在の“わたおじ”の世界


 私には、内田百間という作家を気軽には語れないという気持ちがある。

 なぜ気軽に語れないか。それは百間と自分が似ていると思うからだ。
 それも似ているのは、人には言えない、恥ずかしい部分だからである。
 怠惰、我儘、虚飾、感傷、執着というような部分、他人には隠しておきたい、一人前のオトナとして恥ずかしく思うような部分。そこばかりが、すっごく似ているのである。
 だから百間を語ることは、自分の恥ずかしい部分を語ることに等しいという恐怖感がある。ああ恥ずかしい。なかでも本当に恥ずかしいのは、こうした欠点だらけの自分を苦々しく思いながらも、やっぱり心の奥底では許容している、のみならず愛していることであろう。
 
 百間はこんな恥ずかしい部分をネタにして晒し、絶妙な笑い話にしてたくさんの随筆を描いている。それ自体誰でもできることではなく、彼をすぐれた随筆家にしているひとつの要因だと思う。
 
 で、この「まあだだよ」。
 内田百間をモデルにし、彼の随筆を元にしたエピソードを多々盛り込んでいるという触れ込みであるが…。これはとんでもないウソである。

 この映画の主人公は内田百間でもなんでもない

 私の勝手な思い入れというわけではない。彼の随筆の読者なら誰でも賛同してくれると思う。
 内田百間といえば稀代のくそじじいである。我儘放題、自分ルールを第一として動くことがポリシーである。彼は自分をしてくそじじいをもって任じているのだ。
 だがこの映画の主人公にはそんなふてぶてしいところはひとつもない。小さくやせていて、身体が弱そうで、なんだか頭もちょっと弱そうなおじいさんである。こんな人物が描きたいのなら百間をモデルにする必要は、はなからない。

 長年勤めてきた学校を辞めるとき、生徒に「金むく」と呼ばれて泣いてしまうシーンが冒頭にある。なぜか田舎の中学教師みたいなシーンになっているが、百間が教鞭をとっていたのは法政大学と、軍の養成学校のみである。それに諸般の事情から40代には教壇から完全に退いて文筆業に専念している。こんなシーンなど現実にはありえないのだ。教職についた前後のことは随筆にもくり返し書かれており、読者なら誰でも知っていることだ。なのに、このまさにとってつけた“泣ける”エピソードは、一体何なのだろう。

 さらに不愉快なのが「泥棒入り口」のエピソードだ。教え子たちが夜中に先生の家にちん入すると、玄関に「泥棒入り口」と書いてある札が置いてある。廊下にも「泥棒通路」かなんか(忘れました)書いてある。居間には「泥棒休憩所」と書いてある。教え子たちはこれを見て暖かいユーモアにちょっとじーんとくるというようなシーンである。
 
 これは内田百間の随筆からアイデアをとったものであるが、随筆とはまったく違ったアプローチでとらえられているのに驚かされる。
 百間は強迫観念にかかりやすい自身の性格をよくネタにしている。泥棒が入るかもしれないという脅迫観念もそのひとつで、毎晩、雨戸に仕掛けをし、玄関やトイレの電気を夜じゅうつけておき、果ては目覚まし時計が夜中に鳴るようにセットする。もし泥棒が来てもベルの音で驚いて逃げるだろうというのである。もちろん寝ている自分が驚いて起きてしまい、このアイデアはすぐボツになる。
 「泥棒入り口」もボツになったアイデアとして紹介されている。この札を見た泥棒は思いがけなさに驚いて帰るだろうとまずは考えるのだが、いやいやこんな札をあまりたてると、今度は泥棒に「怖いあまりこんなことを考えたのだな」とのんでかかられると思い直すのである。そのうえ、家族にこのアイデアを話してみるが、あっさり無視されてしまって終わる。こういう笑い話として、随筆は書かれているのである。
 だが映画では百間がこの札を実践したものとして描いてある。もし私が作者だったら、「やってないことをネタにしたこと」を、映像で「実際やったこと」にして描写されるなど、耐えられない。

 もうひとつ気になるのは、百間の晩年を語るときには「もうひとつの家族」がかかせないはずだが、それがまったく抹消されていることである。
 百間は30代で妻と4人の子どもがいる家を出て、もと芸者である女性、こいと所帯を持ち、2度と帰ることはなかった。しかし死ぬまで妻と離婚することはなく、別居した家族との交流は最後まで絶えず、子どもたちはたびたび百間のもとを訪れていた。捨てた家のことは当然ながら百間の生活の中で精神上に大きなウェイトを占めていたと考えられる。その描写はしかし一切なく、おこいさんとの精神愛生活みたいなものがただ淡々と描かれている。 

 つまり、この映画は内田百間をモデルにしているといいながら、彼が創作や実際の生き方で表現した百間という人物そのものをまるで無視している。
 さらに言うなら、あえて百間の性質のややこしいところ、醜いところを全削除しているのである。
 
 黒澤明は百間の愛読者だと言っていたそうだから、この改変は百間を読んだことがない無知からではなく、監督たる自分は、自分の映画で何をしてもいいのだという傲慢から来る意識的なものだと思われる。
 内田百間の随筆の面白いところを適当につまんで、勝手にクロサワの考えた「わたしの理想のおじいちゃん(略してわたおじ)」にくっつけているだけなのだ。

 これは原作のある映画を作るときに一番やってはいけないことをしている最低の映画だと思う。
 原作通りに作るべきか、映画という形態に合わせてアレンジすべきか。監督は原作を通じて自分を表現するのだから、アレンジはすべきだろうというのが私の考えだ。だが原作の精神を破壊してはいけない。原作への尊重を忘れてテーマをねじまげ、人物像をねじまげ、自分の思う通りに操ってはいけない。
 なおかつ、おいしいところだけとって「利用する」など最低の行為であろう。

 はっきり言って、この映画は内田百間に対する冒涜であると私は思う。
 なぜこれを観て誰も怒らないのか、不快に思わないのかが不思議だ。何の評価も呼ばない映画だからといえばそれまでだが、自分をネタにしてそんな適当な映画を作られたこともまた、原作者にとっては侮辱といえるであろう。
posted by adayabook at 00:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月01日

一言で言って、キモイ映画。「サイン」

サイン
2001年米
監督: M.ナイト・シャマラン
出演: メル・ギブソン, ホアキン・フェニックス, その他




 トンデモ監督の名をほしいままにするシャマラン監督のトンデモ映画。
 
 見渡す限りのとうもろこし畑が広がるアメリカの田舎町で展開する、一人の男の家族愛と喪失、信仰の物語。
 シャマラン一流の繊細な演出(鼻につく人もいるかもしれないが、私は見事な職人芸だと思う)で、カットバックを挟みながら静かに進んでいく物語には感動を覚えずにはいられない。
 主人公グラハム(メル・ギブソン)は、妻を亡くし、絶望のあまり神の存在を信じられなくなり、聖職を投げ捨てたもと神父。信仰を失った彼が、残された家族と寄り添い、心に光を取り戻すまでのストーリー…と言えば、感動的だが。

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posted by adayabook at 18:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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