2007年01月30日

高慢と偏見 −岩波版の話


 映画も公開されて、また少し注目された「高慢と偏見」。あらたな新装版が出てから、岩波文庫版の同書がどれだけ悪評高かったかを知った。翻訳が古くさくて固いというのである。

 岩波版の「高慢と偏見」の初版は1950年だ。もともとが格調高き名訳というほどでもない文章だから、ただ古さだけが目立つというのだろう。昔の文庫なので字もチマチマと小さくて見にくい。それでも私はけっこう楽しく読んでいて、あまり不満もなかった。

 他の訳本もいくつかあり、本屋でパラパラめくってみたが、なるほどどれも岩波版に比べるとくだけた、そして正確な訳ではあるようだけど、岩波版で慣れているとどうも違和感があるので結局買っていない。
 
 「読者は翻訳者や編集が思っているほど翻訳のうまい、へたにこだわらない」とよく言われる。読者として、それはそうかもねと思うときがある。それなりにはこだわってるつもりではあるけれど、当たり前だけど重要なのは内容であって、内容に集中するとちょっとくらいへたな、ぎこちないような翻訳でもあまり気にならない。

 そりゃたまには悲惨なほどへったくそな翻訳本にあたって目をむくこともある。しかし一方でそれを平気で出す編集がいるんだから、やっぱり一般的にあまり気にされないものなんだろう。

 前にどっかのサイト(見つけられませんでした)で、翻訳家はこういう仕事…という紹介記事があったが、その中で「出したい本があったら翻訳家が出版社に企画持ちこみするときもある。しかし、翻訳じたいはコンペであって、企画持ちこみした人が翻訳を担当できるとは限らない」と書いてあってびっくりした。
 それが本当ならヘンな訳の本なんか一掃されてるはずだ。というかそんな余裕がある出版社ってどこ?コンペやっても採算取れるくらい売れる翻訳本ってナニ?コンペで落とされるかもしれないに関わらず企画持ちこみする翻訳者って、いるのか?…

 まぁたいがいはある程度、原書の作家や内容によって「この翻訳者に頼もう」ってのが編集サイドにあるものだし、企画が持ちこまれてそれが通れば、たいがいはその翻訳者が担当するものだろう。(よっぽどの素人とかなら別だろうけど)

 でもこの岩波版「高慢と偏見」(あーよかった、話もどってきた)は、1950年代当時の翻訳事情がちょっと違ったことをうかがわせてくれる。

 訳者の富田彬氏は、あとがきでこう書いている。

わたくしはオースティンを世界最大の小説家の1人と見做しているわけではない。わたくし自身の好みからいえば、こういう言わば教養派の小説よりもむしろ野生派の小説、たとえばマーク・トウェインとかハーマン・メルヴィルの小説などのほうに人間的親しみを感じるのである。
 
 つーか…あんたの好みなんか誰も聞いてねぇよ!

 まあ別に本人は悪気はないというか、一読者の意見として(翻訳者なんだけどね)率直に言っただけで、それはいいんだけども。
 とにかくこう公言する人に翻訳をまかせるくらい当時は翻訳家が少なかったのだろう。英米文学翻訳者だからいんじゃない、とばかりに発注されただけという感じだ。

 同じあとがきの中で、富田氏は「高慢と偏見」を「家庭小説」と呼称している。これは他の同書の解説などでも散見する言葉で、富田氏の発明ではないだろうが、誰が読んでも(少なくとも女性なら)わかるように、「高慢と偏見」のテーマは「家庭」じゃなくて「恋愛」である。
 この時代の男性なら当然だったのだろうが、恋愛ドラマを理解しない、別にしようともしない態度が、あとがきから透けて見える。
 こんな人が翻訳したって、確かに、最大限の魅力を原書から引き出せるとはいいがたい。じっさい、彼の翻訳は恋愛ものにはそぐわないガサツさがある。

 だが翻訳というのは不思議なもので、書いたほうが意図しなくったって、読むほうはへたな翻訳の後ろにある原書の本質をちゃんと読み取れるということなのである。だから結論としては岩波版でも全然オッケーということなんであった。

 うーんしかし。富田氏が活動していたこういう時代は翻訳者が食いっぱぐれるってことは、なかっただろうなあ〜
posted by adayabook at 02:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 文学(海外) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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