2007年01月26日

日本人のルーツはサムライではない

 私が日本人とは一体何者なのか?をよく考えるようになったのはごく最近のことだ。
 いつの頃からか、「ラスト・サムライ」以後だったような気もするが、日本人が自分たちを過度にサムライにアイデンティファイするようになってからだ。
 日本人がサムライに自分のルーツを見出すという感覚自体は、だいぶ前からある風潮である。だいぶ前からと言ってもそれは実際の侍という職と共に生きた人々が絶えた昭和からであることは想像にかたくない。
 しかし、それが最近でははなはだしい。武士道の復権とかなんとか言って、サムライ気質を振り回そうとする。

 アメリカ人など、映画でサムライやニンジャ(この2つの区別などついてる人はいない)を観た人から、その素晴らしさをとかれることがある。こちらは笑って聞いているだけだ。それは映画の登場人物なんであって、完全なファンタジーである。

 しかしこのガイジンが持つファンタジーをどうも最近は日本人までもが抱き始めているらしい。地についた日本人としてのルーツを失った私たちは、いまやファンタジーに頼りはじめているのである。
 
 これにはまったく違和感を覚える。私の実感として、私のルーツはサムライなどではない。
 
 私が感じる自分のルーツは「町民」である。これは父方の家風で、東京の下町にある父の家はまさに「寅さん」の世界を地でいくものであった。単なる庶民の世界だが、そこには江戸時代から形作られた独特の様式を持つ「町民文化」というものが息づいていた。今町にはその面影なく、その町民文化を引き継ぐ人々もいなくなった。私たちはかろうじてその精神を受け継ぐことができた最後の世代かもしれない。

 しかし、それよりも根深いルーツがある。
 それはやはり「百姓」であろう。

 わが家は代々の農民ではなかった。だがさかのぼればいつかの時点で農民だったことはほぼ明らかである。私の母方は旧くは武将の家の血筋である。しかし、その先祖が武士となる前を少しばかりさかのぼれば農民であっただろうことは確実だ。武士とは武装農民を出自としているからだ。

 私だけではない。これが明らかに多くの日本人のルーツであろう。
 それなのになぜ自分たちの出自をサムライに求めるなどというファンタジーに頼ろうとするのか。

 農民として自然、特に水と太陽を崇拝する日本人。土地に縛られ、土地を縛り、土地と緊密な生活を続けてきた日本人。ゆえに既得権が好きで、血族の継続にこだわる日本人。
 どう見ても、サムライ気質なんかよりも自然に日本人にそなわっている性格ばかりである。日本人としての矜持を持つなら、まず農民としてのおのれのルーツを見つめなおしたいものだとつくづく思う。
posted by adayabook at 02:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 考える日本の私 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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