2007年02月09日

幽霊の本(Books Esoterica25)

 昔から好きだったが、最近のブームにも乗って、近年はずいぶん「実話系怖い話」を読んだ。
 今でも好きだけど、飽きがさしてきてもいて、もうさほどの実話怪奇譚ファンでもなくなってしまった。

 実話系怖い話では、よく「怪異が封じられた」話が出てくる。どこかに怪奇現象とか幽霊が出たとき、お札を貼ったり、念仏を唱えたり、おはらいしたらそれが消えたという話だ。

 最初は別にこれらの話をなんとも思っていなかった。怪談の楽しみは、話を信じながら疑うところにある。少なくとも私は、会談を見る・聞く間は信じるのも疑うのも同時にやりつつ、同時にやめてしまう。つまり「話はんぶん」だ。

 で、このお札/念仏/おはらい話も話はんぶんに聞いていたけれど、あんまりどっさり見ているうちにある日にふと「ちょっと待て?」と思い始めてしまったのだ。

 だって考えてもみると。
・おはらい→神道
・念仏→仏教(しかも宗派によってお経の種類は違う)
・お札→神道と、一部の仏教の宗派にある
 なんですよ。
 
 死後の世界に行けずにさ迷う者が幽霊である。でも彼らを供養して死後の世界に送るシステムは何種類も、何十種類もある。それは当然、どれが正しいとかでなくて、宗教的な問題なんである。「信じる者は」式に、それはただ死者と生者の選択によっているのだ。

 てことはさー、神道の幽霊が仏教のお札貼られても、しょうがないんだよね?
 ある仏教宗派の幽霊が違う宗派のお経をあげてもらっても、意味ないんだよね?
 キリスト教は、イスラム経は…以下略。
 
 なのに、実話系怖い話では実に大雑把に、坊さんでもなんでもなく、おそらく信者でもない人が、死者(彼の宗派は不明)に向かって「南無阿弥陀仏(または南無妙法蓮華経とかイロイロ)と唱えていたら消えた」とか、これもまた神主でもなく信者でもない人が「神社でお札を買ってきて貼ったら消えた(神社と寺で両方買ってきたというのもある)」とかというのがまかり通っている。

 うーん。宗教心のない幽霊譚って、矛盾しているのでは?
 いや、これまで宗教心なくさんざん楽しんできていて、何なんだけどさ。
 いったん気がついてしまうとすっごく気になるのだ。

 そんなの、供養ならなんでもいいでしょ?同じでしょ?というわけにはいかない。
 だって当然、神がいてあるいは仏がいて、そして死後の世界があって初めて供養が成り立つからだ。そういう観念のもとになりたっているのが、幽霊だ。特定のシステムを経て到達できる死後の世界という観念を否定すると、その上に立っている存在である幽霊は、最初から立つ瀬がない。幽霊の存在までがどうでもよくなって、とどのつまりは宗教は実際には役立たずで、幽霊は全部、錯覚で気のせいで思い違いだということになる。
 
 と、いうことを考え始めると、実話系怖い話もどうも興ざめしてくるのだった。

 そういうことを考えるきっかけになったのが学研のムック「幽霊の本」。もともと怖い話を読むためだけに買った本だけど、総合的に幽霊の知識があれこれ網羅されていてタメになる。その結果冷静になっちゃったけど。そういう罪作りな本ではありますが。

 ブックス・エソテリカはファンでいろいろ買っているけど、これも読み応えはなかなか。怪奇譚集としてもいい出来。画像も豊富で、古典幽霊画のカラーグラビアや、たたりをなしたとされるいわくつきのお岩さんの仮面(すごい入魂の出来!うなされそう)の写真も入った四谷怪談解説も必見。
posted by adayabook at 01:05| Comment(3) | TrackBack(0) | こわい本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月07日

ノロイ −土着的な恐怖もここまで薄味になりました


 「ノロイ」は和製ブレアウィッチとも呼ばれるモキュメンタリー(偽ドキュメンタリー)・ホラーである。

 「リング」や「呪怨」とはまったく違う形のホラーに挑戦したことがまず評価できる。この手の作品は結局これしか作られなかったと思うので、作品の出来不出来はともかく、日本ホラー映画史に残る映画になったことは間違いないのではなかろうか。

 出来不出来はともかく、なんて書いたが、アイデア・構成・映像、全般に渡ってなかなかの力作で楽しめた。
 この映画のレビューを見ると、どこでも松本まりか(アイドル、本人役で出演)をほめているが、この映画ほど彼女が魅力的にうつる作品もないかもしれない。彼女は霊感があって、オカルトTV番組のロケである神社に出向き(同行するレポーターはアンガールズ)、そこで死に至る呪いにとりつかれることになる。

 『リング』の松嶋奈々子とか黒木瞳が私は嫌いで、それは彼女らが化粧がはげない程度の演技を心がけているように見えるからだ。叫ぶ顔も恐怖におののく顔も、リアルさがまるでないので興ざめしてイライラする。
 その点松本まりかは恐怖に叫ぶときも、霊に憑依される演技も体当たりでこなしていて見ていてちゃんと怖いし、しかもそんな演技をしている間もどことなくキュートなのである。ホラー女優としてよっぽど大物だと思うが、その後こういう仕事はあまりしていないらしいのはもったいない。
 
 さて、「ノロイ」が題材にしているのは、日本の田舎にある土着的な怖さである。信州の山奥の村(今はダムの底)で、古来伝われてきた邪鬼のような存在「禍具魂(かぐたば)」が現代に解放されてしまう。関わった人は全員死ぬ。(でもなぜか松本まりかだけは死なない…まぁ本人役なので死んだことにはできないのはしょうがない)

 考えてみると少し前まで、ホラーに限らず日本の映画はこうした都会人の記憶の奥底に眠っている土着的な風俗への恐怖をよくテーマにしていた。横溝正史シリーズが怖いのも、意識的に人里離れた田舎を舞台として濃厚な土着的雰囲気を醸していたせいだ。しかし、いつの間にか映画界からそうした作風は失われていたのだった。ということを「ノロイ」を観て私は始めて気がついた。

 しかし「ノロイ」は、昨今のホラーブームの中で日本映画のスタンダートというべき土着的恐怖をおそらく唯一、扱っていながら、そこのところにまるでリアリティがない。
 私は母方の郷里が信州の山奥なので、子どものときからの感覚があるが、本当の土着的な恐怖はあんなものではないのである。
 
 感覚の問題なので、どこがどう違う、とははっきり言えない。
 恐怖の発信源であるノロイ仮面(パッケージ写真)のデザインがあんまり安っぽい(そのせいで長い間観る気になれなかった)とか、かぐたばを解放するきっかけとなる地元の鬼祭なるものの映像もやっぱり安っぽくて急ごしらえすぎって感じのせいもあるんだけど、もっと何というか…空気感…というか…。あの圧迫されるような息苦しいような、それでいてある種の開放感のあるような…言い表すのは難しい。
 実際に田舎の闇に、風習に、人々に触れた人ならすぐわかるあの感じ。「ノロイ」にはそれがあまりに希薄なのだ。

 土着的なタブーにうっかり触れてしまった都会人の破滅する様を描く、というテーマで話を進めることもできたと思うし、もしかしたらその方が怖かったのではないかと思う。だがノロイの電波が来ると騒ぐ奇人や、自殺する鳩、超能力少女などのガジェットでストーリーを埋めてしまっているのが、いかにもサブカルの、漫画やゲームの影響という感じで、現代の映画だなあという気がする(それが悪いわけではないんだけど)。
 「ノロイ」では土着的恐怖は、それらのガジェットのひとつにすぎないのだ。
 
 しかし今後も土着的恐怖をリアルに描写する映画など出てこないのではないだろうか。
 そういうのが見たければ80年代前半より前の日本映画でいくらでも見られるわけだが、こんなに短期間でそうした感覚が日本映画から失われてた(そして私もこれまでそんなことは気にしてなかった)ことに驚いた。
posted by adayabook at 02:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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