2007年02月09日

幽霊の本(Books Esoterica25)

 昔から好きだったが、最近のブームにも乗って、近年はずいぶん「実話系怖い話」を読んだ。
 今でも好きだけど、飽きがさしてきてもいて、もうさほどの実話怪奇譚ファンでもなくなってしまった。

 実話系怖い話では、よく「怪異が封じられた」話が出てくる。どこかに怪奇現象とか幽霊が出たとき、お札を貼ったり、念仏を唱えたり、おはらいしたらそれが消えたという話だ。

 最初は別にこれらの話をなんとも思っていなかった。怪談の楽しみは、話を信じながら疑うところにある。少なくとも私は、会談を見る・聞く間は信じるのも疑うのも同時にやりつつ、同時にやめてしまう。つまり「話はんぶん」だ。

 で、このお札/念仏/おはらい話も話はんぶんに聞いていたけれど、あんまりどっさり見ているうちにある日にふと「ちょっと待て?」と思い始めてしまったのだ。

 だって考えてもみると。
・おはらい→神道
・念仏→仏教(しかも宗派によってお経の種類は違う)
・お札→神道と、一部の仏教の宗派にある
 なんですよ。
 
 死後の世界に行けずにさ迷う者が幽霊である。でも彼らを供養して死後の世界に送るシステムは何種類も、何十種類もある。それは当然、どれが正しいとかでなくて、宗教的な問題なんである。「信じる者は」式に、それはただ死者と生者の選択によっているのだ。

 てことはさー、神道の幽霊が仏教のお札貼られても、しょうがないんだよね?
 ある仏教宗派の幽霊が違う宗派のお経をあげてもらっても、意味ないんだよね?
 キリスト教は、イスラム経は…以下略。
 
 なのに、実話系怖い話では実に大雑把に、坊さんでもなんでもなく、おそらく信者でもない人が、死者(彼の宗派は不明)に向かって「南無阿弥陀仏(または南無妙法蓮華経とかイロイロ)と唱えていたら消えた」とか、これもまた神主でもなく信者でもない人が「神社でお札を買ってきて貼ったら消えた(神社と寺で両方買ってきたというのもある)」とかというのがまかり通っている。

 うーん。宗教心のない幽霊譚って、矛盾しているのでは?
 いや、これまで宗教心なくさんざん楽しんできていて、何なんだけどさ。
 いったん気がついてしまうとすっごく気になるのだ。

 そんなの、供養ならなんでもいいでしょ?同じでしょ?というわけにはいかない。
 だって当然、神がいてあるいは仏がいて、そして死後の世界があって初めて供養が成り立つからだ。そういう観念のもとになりたっているのが、幽霊だ。特定のシステムを経て到達できる死後の世界という観念を否定すると、その上に立っている存在である幽霊は、最初から立つ瀬がない。幽霊の存在までがどうでもよくなって、とどのつまりは宗教は実際には役立たずで、幽霊は全部、錯覚で気のせいで思い違いだということになる。
 
 と、いうことを考え始めると、実話系怖い話もどうも興ざめしてくるのだった。

 そういうことを考えるきっかけになったのが学研のムック「幽霊の本」。もともと怖い話を読むためだけに買った本だけど、総合的に幽霊の知識があれこれ網羅されていてタメになる。その結果冷静になっちゃったけど。そういう罪作りな本ではありますが。

 ブックス・エソテリカはファンでいろいろ買っているけど、これも読み応えはなかなか。怪奇譚集としてもいい出来。画像も豊富で、古典幽霊画のカラーグラビアや、たたりをなしたとされるいわくつきのお岩さんの仮面(すごい入魂の出来!うなされそう)の写真も入った四谷怪談解説も必見。
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2007年02月07日

ノロイ −土着的な恐怖もここまで薄味になりました


 「ノロイ」は和製ブレアウィッチとも呼ばれるモキュメンタリー(偽ドキュメンタリー)・ホラーである。

 「リング」や「呪怨」とはまったく違う形のホラーに挑戦したことがまず評価できる。この手の作品は結局これしか作られなかったと思うので、作品の出来不出来はともかく、日本ホラー映画史に残る映画になったことは間違いないのではなかろうか。

 出来不出来はともかく、なんて書いたが、アイデア・構成・映像、全般に渡ってなかなかの力作で楽しめた。
 この映画のレビューを見ると、どこでも松本まりか(アイドル、本人役で出演)をほめているが、この映画ほど彼女が魅力的にうつる作品もないかもしれない。彼女は霊感があって、オカルトTV番組のロケである神社に出向き(同行するレポーターはアンガールズ)、そこで死に至る呪いにとりつかれることになる。

 『リング』の松嶋奈々子とか黒木瞳が私は嫌いで、それは彼女らが化粧がはげない程度の演技を心がけているように見えるからだ。叫ぶ顔も恐怖におののく顔も、リアルさがまるでないので興ざめしてイライラする。
 その点松本まりかは恐怖に叫ぶときも、霊に憑依される演技も体当たりでこなしていて見ていてちゃんと怖いし、しかもそんな演技をしている間もどことなくキュートなのである。ホラー女優としてよっぽど大物だと思うが、その後こういう仕事はあまりしていないらしいのはもったいない。
 
 さて、「ノロイ」が題材にしているのは、日本の田舎にある土着的な怖さである。信州の山奥の村(今はダムの底)で、古来伝われてきた邪鬼のような存在「禍具魂(かぐたば)」が現代に解放されてしまう。関わった人は全員死ぬ。(でもなぜか松本まりかだけは死なない…まぁ本人役なので死んだことにはできないのはしょうがない)

 考えてみると少し前まで、ホラーに限らず日本の映画はこうした都会人の記憶の奥底に眠っている土着的な風俗への恐怖をよくテーマにしていた。横溝正史シリーズが怖いのも、意識的に人里離れた田舎を舞台として濃厚な土着的雰囲気を醸していたせいだ。しかし、いつの間にか映画界からそうした作風は失われていたのだった。ということを「ノロイ」を観て私は始めて気がついた。

 しかし「ノロイ」は、昨今のホラーブームの中で日本映画のスタンダートというべき土着的恐怖をおそらく唯一、扱っていながら、そこのところにまるでリアリティがない。
 私は母方の郷里が信州の山奥なので、子どものときからの感覚があるが、本当の土着的な恐怖はあんなものではないのである。
 
 感覚の問題なので、どこがどう違う、とははっきり言えない。
 恐怖の発信源であるノロイ仮面(パッケージ写真)のデザインがあんまり安っぽい(そのせいで長い間観る気になれなかった)とか、かぐたばを解放するきっかけとなる地元の鬼祭なるものの映像もやっぱり安っぽくて急ごしらえすぎって感じのせいもあるんだけど、もっと何というか…空気感…というか…。あの圧迫されるような息苦しいような、それでいてある種の開放感のあるような…言い表すのは難しい。
 実際に田舎の闇に、風習に、人々に触れた人ならすぐわかるあの感じ。「ノロイ」にはそれがあまりに希薄なのだ。

 土着的なタブーにうっかり触れてしまった都会人の破滅する様を描く、というテーマで話を進めることもできたと思うし、もしかしたらその方が怖かったのではないかと思う。だがノロイの電波が来ると騒ぐ奇人や、自殺する鳩、超能力少女などのガジェットでストーリーを埋めてしまっているのが、いかにもサブカルの、漫画やゲームの影響という感じで、現代の映画だなあという気がする(それが悪いわけではないんだけど)。
 「ノロイ」では土着的恐怖は、それらのガジェットのひとつにすぎないのだ。
 
 しかし今後も土着的恐怖をリアルに描写する映画など出てこないのではないだろうか。
 そういうのが見たければ80年代前半より前の日本映画でいくらでも見られるわけだが、こんなに短期間でそうした感覚が日本映画から失われてた(そして私もこれまでそんなことは気にしてなかった)ことに驚いた。
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2007年01月30日

高慢と偏見 −岩波版の話


 映画も公開されて、また少し注目された「高慢と偏見」。あらたな新装版が出てから、岩波文庫版の同書がどれだけ悪評高かったかを知った。翻訳が古くさくて固いというのである。

 岩波版の「高慢と偏見」の初版は1950年だ。もともとが格調高き名訳というほどでもない文章だから、ただ古さだけが目立つというのだろう。昔の文庫なので字もチマチマと小さくて見にくい。それでも私はけっこう楽しく読んでいて、あまり不満もなかった。

 他の訳本もいくつかあり、本屋でパラパラめくってみたが、なるほどどれも岩波版に比べるとくだけた、そして正確な訳ではあるようだけど、岩波版で慣れているとどうも違和感があるので結局買っていない。
 
 「読者は翻訳者や編集が思っているほど翻訳のうまい、へたにこだわらない」とよく言われる。読者として、それはそうかもねと思うときがある。それなりにはこだわってるつもりではあるけれど、当たり前だけど重要なのは内容であって、内容に集中するとちょっとくらいへたな、ぎこちないような翻訳でもあまり気にならない。

 そりゃたまには悲惨なほどへったくそな翻訳本にあたって目をむくこともある。しかし一方でそれを平気で出す編集がいるんだから、やっぱり一般的にあまり気にされないものなんだろう。

 前にどっかのサイト(見つけられませんでした)で、翻訳家はこういう仕事…という紹介記事があったが、その中で「出したい本があったら翻訳家が出版社に企画持ちこみするときもある。しかし、翻訳じたいはコンペであって、企画持ちこみした人が翻訳を担当できるとは限らない」と書いてあってびっくりした。
 それが本当ならヘンな訳の本なんか一掃されてるはずだ。というかそんな余裕がある出版社ってどこ?コンペやっても採算取れるくらい売れる翻訳本ってナニ?コンペで落とされるかもしれないに関わらず企画持ちこみする翻訳者って、いるのか?…

 まぁたいがいはある程度、原書の作家や内容によって「この翻訳者に頼もう」ってのが編集サイドにあるものだし、企画が持ちこまれてそれが通れば、たいがいはその翻訳者が担当するものだろう。(よっぽどの素人とかなら別だろうけど)

 でもこの岩波版「高慢と偏見」(あーよかった、話もどってきた)は、1950年代当時の翻訳事情がちょっと違ったことをうかがわせてくれる。

 訳者の富田彬氏は、あとがきでこう書いている。

わたくしはオースティンを世界最大の小説家の1人と見做しているわけではない。わたくし自身の好みからいえば、こういう言わば教養派の小説よりもむしろ野生派の小説、たとえばマーク・トウェインとかハーマン・メルヴィルの小説などのほうに人間的親しみを感じるのである。
 
 つーか…あんたの好みなんか誰も聞いてねぇよ!

 まあ別に本人は悪気はないというか、一読者の意見として(翻訳者なんだけどね)率直に言っただけで、それはいいんだけども。
 とにかくこう公言する人に翻訳をまかせるくらい当時は翻訳家が少なかったのだろう。英米文学翻訳者だからいんじゃない、とばかりに発注されただけという感じだ。

 同じあとがきの中で、富田氏は「高慢と偏見」を「家庭小説」と呼称している。これは他の同書の解説などでも散見する言葉で、富田氏の発明ではないだろうが、誰が読んでも(少なくとも女性なら)わかるように、「高慢と偏見」のテーマは「家庭」じゃなくて「恋愛」である。
 この時代の男性なら当然だったのだろうが、恋愛ドラマを理解しない、別にしようともしない態度が、あとがきから透けて見える。
 こんな人が翻訳したって、確かに、最大限の魅力を原書から引き出せるとはいいがたい。じっさい、彼の翻訳は恋愛ものにはそぐわないガサツさがある。

 だが翻訳というのは不思議なもので、書いたほうが意図しなくったって、読むほうはへたな翻訳の後ろにある原書の本質をちゃんと読み取れるということなのである。だから結論としては岩波版でも全然オッケーということなんであった。

 うーんしかし。富田氏が活動していたこういう時代は翻訳者が食いっぱぐれるってことは、なかっただろうなあ〜
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2007年01月27日

「まあだだよ」− 内田百間不在の“わたおじ”の世界


 私には、内田百間という作家を気軽には語れないという気持ちがある。

 なぜ気軽に語れないか。それは百間と自分が似ていると思うからだ。
 それも似ているのは、人には言えない、恥ずかしい部分だからである。
 怠惰、我儘、虚飾、感傷、執着というような部分、他人には隠しておきたい、一人前のオトナとして恥ずかしく思うような部分。そこばかりが、すっごく似ているのである。
 だから百間を語ることは、自分の恥ずかしい部分を語ることに等しいという恐怖感がある。ああ恥ずかしい。なかでも本当に恥ずかしいのは、こうした欠点だらけの自分を苦々しく思いながらも、やっぱり心の奥底では許容している、のみならず愛していることであろう。
 
 百間はこんな恥ずかしい部分をネタにして晒し、絶妙な笑い話にしてたくさんの随筆を描いている。それ自体誰でもできることではなく、彼をすぐれた随筆家にしているひとつの要因だと思う。
 
 で、この「まあだだよ」。
 内田百間をモデルにし、彼の随筆を元にしたエピソードを多々盛り込んでいるという触れ込みであるが…。これはとんでもないウソである。

 この映画の主人公は内田百間でもなんでもない

 私の勝手な思い入れというわけではない。彼の随筆の読者なら誰でも賛同してくれると思う。
 内田百間といえば稀代のくそじじいである。我儘放題、自分ルールを第一として動くことがポリシーである。彼は自分をしてくそじじいをもって任じているのだ。
 だがこの映画の主人公にはそんなふてぶてしいところはひとつもない。小さくやせていて、身体が弱そうで、なんだか頭もちょっと弱そうなおじいさんである。こんな人物が描きたいのなら百間をモデルにする必要は、はなからない。

 長年勤めてきた学校を辞めるとき、生徒に「金むく」と呼ばれて泣いてしまうシーンが冒頭にある。なぜか田舎の中学教師みたいなシーンになっているが、百間が教鞭をとっていたのは法政大学と、軍の養成学校のみである。それに諸般の事情から40代には教壇から完全に退いて文筆業に専念している。こんなシーンなど現実にはありえないのだ。教職についた前後のことは随筆にもくり返し書かれており、読者なら誰でも知っていることだ。なのに、このまさにとってつけた“泣ける”エピソードは、一体何なのだろう。

 さらに不愉快なのが「泥棒入り口」のエピソードだ。教え子たちが夜中に先生の家にちん入すると、玄関に「泥棒入り口」と書いてある札が置いてある。廊下にも「泥棒通路」かなんか(忘れました)書いてある。居間には「泥棒休憩所」と書いてある。教え子たちはこれを見て暖かいユーモアにちょっとじーんとくるというようなシーンである。
 
 これは内田百間の随筆からアイデアをとったものであるが、随筆とはまったく違ったアプローチでとらえられているのに驚かされる。
 百間は強迫観念にかかりやすい自身の性格をよくネタにしている。泥棒が入るかもしれないという脅迫観念もそのひとつで、毎晩、雨戸に仕掛けをし、玄関やトイレの電気を夜じゅうつけておき、果ては目覚まし時計が夜中に鳴るようにセットする。もし泥棒が来てもベルの音で驚いて逃げるだろうというのである。もちろん寝ている自分が驚いて起きてしまい、このアイデアはすぐボツになる。
 「泥棒入り口」もボツになったアイデアとして紹介されている。この札を見た泥棒は思いがけなさに驚いて帰るだろうとまずは考えるのだが、いやいやこんな札をあまりたてると、今度は泥棒に「怖いあまりこんなことを考えたのだな」とのんでかかられると思い直すのである。そのうえ、家族にこのアイデアを話してみるが、あっさり無視されてしまって終わる。こういう笑い話として、随筆は書かれているのである。
 だが映画では百間がこの札を実践したものとして描いてある。もし私が作者だったら、「やってないことをネタにしたこと」を、映像で「実際やったこと」にして描写されるなど、耐えられない。

 もうひとつ気になるのは、百間の晩年を語るときには「もうひとつの家族」がかかせないはずだが、それがまったく抹消されていることである。
 百間は30代で妻と4人の子どもがいる家を出て、もと芸者である女性、こいと所帯を持ち、2度と帰ることはなかった。しかし死ぬまで妻と離婚することはなく、別居した家族との交流は最後まで絶えず、子どもたちはたびたび百間のもとを訪れていた。捨てた家のことは当然ながら百間の生活の中で精神上に大きなウェイトを占めていたと考えられる。その描写はしかし一切なく、おこいさんとの精神愛生活みたいなものがただ淡々と描かれている。 

 つまり、この映画は内田百間をモデルにしているといいながら、彼が創作や実際の生き方で表現した百間という人物そのものをまるで無視している。
 さらに言うなら、あえて百間の性質のややこしいところ、醜いところを全削除しているのである。
 
 黒澤明は百間の愛読者だと言っていたそうだから、この改変は百間を読んだことがない無知からではなく、監督たる自分は、自分の映画で何をしてもいいのだという傲慢から来る意識的なものだと思われる。
 内田百間の随筆の面白いところを適当につまんで、勝手にクロサワの考えた「わたしの理想のおじいちゃん(略してわたおじ)」にくっつけているだけなのだ。

 これは原作のある映画を作るときに一番やってはいけないことをしている最低の映画だと思う。
 原作通りに作るべきか、映画という形態に合わせてアレンジすべきか。監督は原作を通じて自分を表現するのだから、アレンジはすべきだろうというのが私の考えだ。だが原作の精神を破壊してはいけない。原作への尊重を忘れてテーマをねじまげ、人物像をねじまげ、自分の思う通りに操ってはいけない。
 なおかつ、おいしいところだけとって「利用する」など最低の行為であろう。

 はっきり言って、この映画は内田百間に対する冒涜であると私は思う。
 なぜこれを観て誰も怒らないのか、不快に思わないのかが不思議だ。何の評価も呼ばない映画だからといえばそれまでだが、自分をネタにしてそんな適当な映画を作られたこともまた、原作者にとっては侮辱といえるであろう。
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2007年01月26日

日本人のルーツはサムライではない

 私が日本人とは一体何者なのか?をよく考えるようになったのはごく最近のことだ。
 いつの頃からか、「ラスト・サムライ」以後だったような気もするが、日本人が自分たちを過度にサムライにアイデンティファイするようになってからだ。
 日本人がサムライに自分のルーツを見出すという感覚自体は、だいぶ前からある風潮である。だいぶ前からと言ってもそれは実際の侍という職と共に生きた人々が絶えた昭和からであることは想像にかたくない。
 しかし、それが最近でははなはだしい。武士道の復権とかなんとか言って、サムライ気質を振り回そうとする。

 アメリカ人など、映画でサムライやニンジャ(この2つの区別などついてる人はいない)を観た人から、その素晴らしさをとかれることがある。こちらは笑って聞いているだけだ。それは映画の登場人物なんであって、完全なファンタジーである。

 しかしこのガイジンが持つファンタジーをどうも最近は日本人までもが抱き始めているらしい。地についた日本人としてのルーツを失った私たちは、いまやファンタジーに頼りはじめているのである。
 
 これにはまったく違和感を覚える。私の実感として、私のルーツはサムライなどではない。
 
 私が感じる自分のルーツは「町民」である。これは父方の家風で、東京の下町にある父の家はまさに「寅さん」の世界を地でいくものであった。単なる庶民の世界だが、そこには江戸時代から形作られた独特の様式を持つ「町民文化」というものが息づいていた。今町にはその面影なく、その町民文化を引き継ぐ人々もいなくなった。私たちはかろうじてその精神を受け継ぐことができた最後の世代かもしれない。

 しかし、それよりも根深いルーツがある。
 それはやはり「百姓」であろう。

 わが家は代々の農民ではなかった。だがさかのぼればいつかの時点で農民だったことはほぼ明らかである。私の母方は旧くは武将の家の血筋である。しかし、その先祖が武士となる前を少しばかりさかのぼれば農民であっただろうことは確実だ。武士とは武装農民を出自としているからだ。

 私だけではない。これが明らかに多くの日本人のルーツであろう。
 それなのになぜ自分たちの出自をサムライに求めるなどというファンタジーに頼ろうとするのか。

 農民として自然、特に水と太陽を崇拝する日本人。土地に縛られ、土地を縛り、土地と緊密な生活を続けてきた日本人。ゆえに既得権が好きで、血族の継続にこだわる日本人。
 どう見ても、サムライ気質なんかよりも自然に日本人にそなわっている性格ばかりである。日本人としての矜持を持つなら、まず農民としてのおのれのルーツを見つめなおしたいものだとつくづく思う。
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2007年01月25日

このサイト

このサイトについて。

 私は子どものころから読書にとりつかれていた。今も多くの本を読む。

 質や量はたいしたことはないが、とにかく手当たり次第に書物を読んできた。

 その理由はただひとつ「知りたいから」につきる。
 
 何を知りたいのか。つらつら考えるに、やはりそれは「自分は何者で、どこから来たのか」という問題につきるようだ。

 それに関連して、私がずっと疑問に思ってきたのは「日本人とは何者か。日本人である私とは何者か。」ということであった。

 だが私はそういうことをつっこんで研究・考察する専門家ではないし、なりえない。
 ただ日々、そんなことを漠然と思いながら、散漫な読書を続けているだけである。

 タイトルは宮本常一「忘れられた日本人」から拝借している。民俗学者・宮本は近代化で断絶される以前の日本人の姿を丁寧に掘り起こしていった。
 だが、現代では私たちは、近代化以前どころか、ついこの前にあったできごとや当時の感情までもハイスピードで忘れてしまっている。まして先人のことなどは忘却のかなただ。
 私たちはいまやへその緒のない赤子のようなものである。または、一定時間以上何かを覚えていられない健忘症の患者のごときである。このような症例は近年多くの映画で取り上げられたのでご存知であろう。記憶を保つことができないので、あちこちにメモを貼る。それでも片はしから忘れていく。足元が暗闇に飲み込まれるような恐ろしさ。私は病気ではないけれど、今抱えているこの危惧、日本人としての記憶が薄れていくこの危惧は、これに似たような症状を持っているといえないだろうか。

 メモを貼りまくるかわりに、ブログを立ち上げてみた。
 これは体系的な研究ではない。体系的なメモでさえない。
 ただの、日常的な、漠然とした、自分を支える行為の一環である。
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2006年04月02日

夏目家の糠みそ

夏目家の糠みそ
半藤末利子/著
PHP研究所
2003/06
文庫判
ISBN: 4569579604


 夏目漱石の孫、半藤末利子による随筆集。
 タイトル通り、祖父の夏目漱石がらみのことがらを孫の視点から語ったエッセイであるが、この人は、ごく普通の主婦であって、漱石以外に取り上げられるテーマはごく普通。食べ物のこと、近所づきあいや夫との生活、若い頃の回想などが綴ってある。その感覚もごく普通なのだが、血のなせる生まれ持ったものなのか、夫(半藤一利)が小説家というのが関係しているのか、何となくセンスを感じる。何気ない中に、どこか読ませるものがある。

 私はこうした、女性による日常を綴ったエッセイというのは読むと退屈してしまうほうなんだけど、彼女のエッセイは楽しく読めた。
 特にすごい文章のうまさとか、斬新な切り口とかはないんだけど。続きを読む
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2006年04月01日

一言で言って、キモイ映画。「サイン」

サイン
2001年米
監督: M.ナイト・シャマラン
出演: メル・ギブソン, ホアキン・フェニックス, その他




 トンデモ監督の名をほしいままにするシャマラン監督のトンデモ映画。
 
 見渡す限りのとうもろこし畑が広がるアメリカの田舎町で展開する、一人の男の家族愛と喪失、信仰の物語。
 シャマラン一流の繊細な演出(鼻につく人もいるかもしれないが、私は見事な職人芸だと思う)で、カットバックを挟みながら静かに進んでいく物語には感動を覚えずにはいられない。
 主人公グラハム(メル・ギブソン)は、妻を亡くし、絶望のあまり神の存在を信じられなくなり、聖職を投げ捨てたもと神父。信仰を失った彼が、残された家族と寄り添い、心に光を取り戻すまでのストーリー…と言えば、感動的だが。

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2006年03月31日

火星の人類学者

火星の人類学者 脳神経科医と7人の奇妙な患者
オリヴァー・サックス/著
吉田利子/訳
早川書房
2001/04
文庫判
ISBN: 415050251X


 脳神経科医として有名なサックス博士が、彼が診てきた7人の印象的な患者たちの症状を書き記したエッセイ。
 彼ら7人は、かなり重度の脳神経障害の持ち主である。いわゆる「普通の人」とは違う奇妙なふるまいをし、社会的生活に困難を抱えている人物もいる。
 サックス博士は彼らの奇抜な修正や行動、傷ついた脳が及ぼす不思議な現象を淡々と書き綴る。
 だが本書は、そうした脳障害の人々のありさまを綴った凡百の書物とは一線を画している。
 それは、サックス博士が「人間は、どんな環境にも適応し、自分らしい生き方を見出すことができる」というテーマを、すべてのエッセイの中で貫いているからである。

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2006年03月30日

Spider-man/ Human Torch: I'm With Stupid

Spider-man /Human Torch: I'm With Stupid
Story: Dan Slott
Art: Ty Templeton
2005/06/15
Marvel Enterprises
ISBN: 0785117237


 アメコミのキャラ付けでは、しばしばそういうことがあるが、スパイダーマンとヒューマントーチは、光と影のように完全に対をなすように設定されている。
 同年代の、ニューヨークで活動する2人のスーパーヒーロー。
 ひとりは内省的で頭のいいピーター。注意深く正体を隠しているスパイダーマンだ。
 そしてもうひとりは外交的でおつむの軽いジョニー。マスコミ大好きで、常に注目されたがっているヒューマントーチ。
 この2人はどこまでもかみあわないが、それでも気の合う親友同士。こういう一見ちぐはぐな友情が存在するのは、何もフィクションの中だけではない。だからこそ、2人が出会って以来のこの友情が、読者に長い間人気だったのだろう。
 このコミックは、およそ40年に渡って描かれてきた2人の交友の歴史をダイジェスト的にまとめたものだ。
 
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posted by adayabook at 02:30| Comment(14) | TrackBack(0) | アメコミ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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